ヒビコレ

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孤独について

 孤独について語ろうとする時、そこで問題となるのは、他者(外部)ではなく、あくまでも共同体内部での、共同体の成員としての自己と、その他の成員との関係である。

 その関係の中で、何らかの要因によって生じた違和感覚が肥大することによって孤独は生ずる。故に孤独とは、ただ単一ではなく、全体と部分の関係によってとらえられなければならない。言い換えるならば、孤独は一人だから生じるのではなく、全体の中での”一人”という捉え方をすることによって起こるものである。この限りにおいては、三木清の次の言葉は正しい。

 

孤独は山になく、街にある。一人の人間にあるのでなく、大勢の人間の「間」にあるのである。孤独は「間」にあるものとして空間の如きものである。「真空の恐怖」--それは物質のものでなくて人間のものである。

 (三木清、”孤独について”(「人生論ノート」、1954)

 

 

  孤独は、常に関係の視野においてのみ現れる。ステレオタイプではあるが、吉本隆明の用語を借りれば、個人の心(自己幻想)と男・女のあいだの心(対幻想)と集団の心(共同幻想)との3つの場面で現れうる。分かりやすいところから言えば、共同幻想に違和を感じることが、孤独の典型的な例であると言える。つまり、”誰も私を分かってくれない”という意識である。

 しかし、このコト自体は、解消されうる性質のものである。なぜなら、”分かってくれない”のなら、”分かるような”コトバを使えばよいだけのことだからである。それ故にこそ”喩”(譬え)は存在する。自分自身のリアリティを、他者に真に伝えたいのならば、それに相応しいコトバを探せばよいだけのことである。

 例えば、聖書を例に挙げるならば、イエスの偉大さというリアリティを伝えるために”奇跡”という”喩”は生まれたのである。奇跡は、本当に起こったのかもしれないが、それにしてもそれが単なる”奇術”ではなく、”奇跡”として認められるのはイエス故にこそである。イエスのその偉大さは、奇跡に等しいのである。(ただし、その逆はない。つまり奇跡が偉大という理由でイエスが偉大なわけではない。)
分かってくれないのではない。自分が分からないコトバを発しているだけなのである。

 その意味で共同体の中での孤独感の解消とは、自分のリアルをいかにして他者と共有するかということがその答えとなる。具体的に記せば(1)分かるようなコトバを使うか(2)自分が伝えられる範囲のコトバと、共同体のコトバの間で妥協するか(3)自分のコトバが伝わるような新しい共同体を作るかという作業をするということだ。一番容易なのは(2)の方法であろう。我々の生活は常に妥協によって成立している。自己幻想と共同幻想の”間”に”私”は存在する。

 対幻想の孤独の大部分は喪失の問題として現れる。つまり、今まで出来上がっていたはずの関係が無くなったとき、その時こそ始めて現れる。吉本は対幻想を男・女の関係としているが、それはそれほど重要ではない。もちろん吉本の思想の中では重要なことである。しかし孤独ということから考えると問題は性ではなく一対一の関係ということである。言うまでもなく、コレは人間関係の最小単位であり、本来的にはこれは共同体とは異質なものである。故にこそ共同体の対立、あるいは共同体の制度への組込(婚姻など)などが生ずる。
 このような一対一の関係が壊れたとき、喪失という孤独は生ずる。今までにあったはずのものが急に無くなるという状況から生まれる孤独。それは、一対一の、一がなくなり、ただ”対”(二人の間から生じたコード)の部分だけが残滓の様に残っているということである。この”対”は代替不可能である。しかし、新たな一との間に、新たな”対”が生ずることによって、孤独は解消されうる。
 ”僕には君が必要だ”と言うとき、”君”は唯一のものなのか、それとも”多”の中の”一”なのか?喪失とは、この問を根底に孕んでいる。

 最後に自己幻想の孤独。これは何かと言えば、”孤独”感情そのものが”孤独”ということ。言い換えるならば自分自身が分からないという孤独。自分自身が分からないと言うことがどう言うことかと言えば、他者との距離が分裂的であるということである。矛盾した言い方かもしれないが、自己意識は常に他者と比べることによっと出来上がる相対的なものである。しかし、仮にその比べる他者が不在であったらと考えるとき、この孤独は起こりうる。つまり、”誰も私を分かってはくれない”ではなく、”私は誰も(何も)理解していないのではないか”という不安から生ずる孤独である。
 これに関して、解決法はまさしく妥協しかない。妥協とは、自分と他者とを一応は信頼するということである。この”一応の信頼”によってのみ、”私”は存続しうる。

 人間存在がそもそも孤独であると言ったのは坂口安吾である。彼はペローの赤頭巾-狼が赤頭巾ちゃんをむしゃむしゃと食べちゃいました、おしまい-を例にとって、このようなやりきれないような、全くモラルが存在しないところ、救い無しのところが、我々のふるさとではないかと言っている。つまり、このようなやりきれない生存の孤独、暗黒の孤独こそが私たちのふるさとなのではないのかと。
そのあとに続けて彼は

”最後に、むごたらしいこと、救いがないということ、それだけが唯一の救いなのであります。モラルがないということ自体がモラルであると同じように、救いが無いということ自体が救いであります”(「文学のふるさと」)

 

と記している。しかし、この孤独はもっとも本来的な意味での孤独であり、この論の主旨からは外れる。
 この孤独は関係が全くない共同体の外部(他者)の問題に属する。つまり”共同体の外部”(不可知のもの)と共同体の成員としての私の間に生ずる問題である。この孤独は、仏教で”無”と呼ばれるものに等しい。
 しかし、私が語ろうとする孤独は、最も単純な意味での孤独である。つまり、”意識”としての”孤独”であり、状態としての孤独ではない。状態としての孤独とは独一ということであり、根本的な意味合いにおいて救いは確かにそのようなエゴイスティックなところにある。しかし、”意識としての孤独”は救いではない。そこには救いはなく、救われたい私がいるだけである。

 孤独が残酷なのは、”救いなし”ではなく、上記したように解消策が存在するからである。しかし、解消策が存在しても、それが成功しなければ解消したことにはならない。例えば”分かるようなコトバ”を語ればいいといったところで、そのコトバを探すまでにどれくらいの時間がかかるのだろうか?そこに、現実問題としての孤独の悲劇が生じている。

にも関わらず孤独は”語ること”あるいは”信頼すること”によってしか、解消されない。”孤独”という意識が、ただ通り過ぎるのを待っていても仕方がない。成功すること(孤独が解消されること)を信じて、私は語るしかないのである